裸電球が灯った深夜の倉庫である。男が一人。元は本社勤務の営業部長だったが、今は地方の缶ジュース工場の工場長である。
静まりかえった倉庫の中には甘い匂いが漂っている。五十がらみのその男は黙々と缶ジュースの栓をあけては、中身を桶に捨てる。十箱目で生爪が剥がれそうになってからは、ドライバーを使っている。空になると耳元で振っては音を確かめている。もう三時間近くも同じ作業を繰り返している。
男はこの果汁百パーセントという表示のジュースが嫌いだった。そもそも濃縮還元ジュースが果汁百パーセントというのが気に入らない。一度、半分まで煮詰めたものを後で倍の合成ミネラル水で薄めたからと言って百パーセントフレッシュジュースというのは虚偽の広告ではないかと思う。しかも桃をベースと言うことだが、それ以外にも名前の知られていない輸入果実の粉末が幾種類も混じっている。本来なら桃の味なんてするはずがないような代物を強引に合成香料と甘味料で風味を整えているのだ。
男はこんな商品の営業に反発し、本社のやり方を役員会で批判した。それは自らの主張の正当さと自分の実績から来る自信があればこその行動だった。しかし、その結果が現在の彼の地位だった。男は皮肉にも自らが公然と否定した仕事の責任者を任じられた。男は辞表を出したかったが、妻子の手前、それは許されなかったのである。
地方工場の中でも一番規模が小さく、設備もスタッフも不十分な職場に、彼の理解者は少なかった。月末になると閉鎖の噂が出るような工場である。社員の士気が上がるはずもない。若い従業員からは露骨に無視され、彼と同年輩の社員は皆、無気力だった。
そんな状況で、男の慰めになったのはただ一つ、片言の日本語しか話せない、アニタという二十歳の女性社員の存在だった。東京で働いている恋人と年末には結婚式を挙げる。その時の仲人になってくれと頼まれた。アニタは婚約指輪を見せて、眩しいほどの笑顔で語りかけてくれた。いつも妻子からの電話が途絶え気味だった男を励ましてくれたのだ。会社が休みでも、自宅に帰れるわけでもない男には、逆に休日がうらめしかった。彼女の笑顔を見るために、出社しているような日々がずっと続いていた。
百箱目。三千本目の空き缶にがさりと手応えがする。缶切りで開けると、中から白くふやけた女の薬指が出た。アニタが缶のプレス機械に挟んでしまった指だ。婚約指輪はしっかりとはまったままだ。男は指輪を見つめて、ほっとため息をつく。
昨日の生産分はすべて廃棄処分。事故は公表にされないままこの工場が閉鎖され、男はまた別な部署に配置換えになるか、退職勧告を受けるか。アニタは会社に正式に雇用されているわけではないので、労災保険が適応されない。一時的な見舞金すら、経理は承知しない。男は自分の無力さを少しでも償いたくて、今まで必死に指輪を探し続けていたのである。病室のアニタは婚約者の居場所を教えてくれなかったが、今度こそ連絡先を聞き出さなくてはと指輪をつまみ上げようとする。銀の指輪はその形をねっとりと崩してしまった。銀どころか金属でもない。銀紙の指輪だった。
彼女はいつも明るく振る舞っていた。婚約指輪も、恋人の存在も、男を勇気づけるための作り事だったのだ。男がそんな彼女にしてやれることは何もない。