脚本を書こう

 脚本を書く上では今やあちこちにテキストがありますので、形から入りましょう。シーンナンバー毎に場面の状況を台詞とト書きで書いていきます。客観的なト書きを心がけて、曖昧で感覚的な表現はなるべく避けて、具体的、かつ視覚的に人物の動きを必要最小限だけを書きます。場面の描写も必要最低限でよいので、昼か夜か、ストーリー上どうしてもはずせない自然描写(雨が降っているとか)で十分です。あまりにも細かいト書きは演出者に余計なプレッシャーをかけるので良くありません。演技者にとってはプランを立てやすいでしょうが、本来それは監督が立てて、役者に与えるものです。また、文学的な表現は主観的になってしまいますので、控えましょう。注意しなければいけないのが、登場人物の台詞を説明的にしないことです。台詞は少なくしましょう。どっかの高視聴率のホームドラマみたいに登場人物がしゃべりまくることが台詞ではありません。状況と展開がわかりさえすればいいのですから。気の利いた台詞を工夫したい気持ちも分かりますが、脚本の段階で気張りすぎてもいけません。とはいえ、主張するべきトコロは主張するべきで、何度も書き直して、効果的な台詞を考えましょう。でも、どうせ撮影の途中で変更されてしまうのだろうと諦めて書くことが肝心です。これだけは譲れないと言う部分があってもよいのですが、最終的な決定権は演出する監督にあるのですから。

 シーンナンバーが全部で30あれば大体30分の映画になると思えばよいです。ずいぶん大胆な発言ですが、私の感覚では大体そうでした。

 漫然と書き始めると余計な説明シーンを加えてしまうことがありますので、シーン毎のあらすじを作り、一覧表を作ったり、カード化したりすると良いでしょう。カード化するこどて不要なシーンの整理が出来るので便利です。ストーリーの起伏が一望できるものがあるのはよいものです。ラストに向けて様々な伏線が効果的に盛り上がっていく構成を心がけましょう。勧善懲悪時代劇の典型「水戸黄門」はドラマ作りの基本です。一本真面目に見てみてください。前半の作劇上生まれた悲喜劇のすべてがラストの活劇と黄門様の情で浄化できるように仕組まれています。

 シーンの中に回想が含まれることがあります。その場合の扱いですが、私はきちんとシーンを分けるべきだと思います。そうしないと撮影の記録が煩雑になり、間違いの元になりますから。私はよくタイトルの出方まで指定したような脚本を書きましたが、あれはいかがなものかと思います。劇場映画の決定稿が雑誌や本に出ていたものをそっくり真似したために、そういう書き癖がついていたのですが、図々しいかもしれません。脚本は映画の図面であり、土台なのですから出しゃばりすぎてもいけないと思います。しかし、ないがしろには出来るものではありません。脚本は何回も推敲を繰り返される宿命にあるものです。決定稿の後も現場で変わり、アフレコの時も変わります。脚本家は監督の演出に口を出すべきではなく、監督にお任せするという潔さが大切です。特に原作者が映画の撮影中に監督に文句を言ったりしちゃいけません。

 映画は完結しなくてはいけませんので、結末がないような脚本もいけません。企画書では曖昧な部分も脚本は最後まできちんと書き上げなければ発表してはいけません。登場人物は台詞とト書きによって命を吹き込まれるのですから、きちんと人物設定をしてから書き進めることが大切です。そうしないと登場人物の個性がはっきりしません。企画の段階で人物設定がちゃんとしていない時は、脚本家と監督が打ち合わせて、練り上げていきましょう。衣装や小道具などで明快に書き分けてしまうと人物造形は楽です。個性も形からと言うことで、工夫しましょう。

 「いけない40年ロマンス」の脚本の成り立ちについては、駒大映研のページのほうに書いてありますので省略しますが、群像劇と言うことで登場人物の多い脚本でした。登場人物をすべて類型的で、典型的なキャラクター造形としてしまいました。主人公の男女は美男美女。その友達のカップルは三の線。そこに気の弱い親切なチンピラが加わり、Gメンたちは全員スーツ姿。ゲリラ側はジーパン姿。それぞれの組織には№1がいて、№2がいる。№1はただリーダーと言うだけでキャラが立つので、№2には外見的な特徴を持たせました。Gメンの№2には片目に眼帯をかけさせる。ゲリラの№2は女賭博師風の女性にして小道具に番傘を持たせ、Gメンの№1とかつては恋仲であったというエピソードまで後から付け加えました。何か印象的な小道具を持たせたり、妙な癖をつけたりするのは観客にその人物を手っ取り早く印象づけるのに最適の手段です。しかし、安易な手法でもありますので、専門家からは最低だと言われるかも知れません。しかし、そうでもしないと観客が登場人物を見分けることは難しいものなのです。この脚本の場合は早くから自分で監督する意思があったので、立ち入ったことまで書き込んでいったのですが、純粋な脚本という立場から言うと邪道だったと言えるでしょう。

 監督の修行は脚本を書くことだ。と、かの黒澤明監督も仰有っています。旺盛な脚本執筆能力がなくては「監督」は務まりません。監督を目指す人に脚本修行は不可欠なのです。

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