先ずはアイディアを出し合うことです。脚本は、書ける人が書くと言うことになると思いますが、書くのにはアイディアがなくてはいけません。誰もが見たことも聞いたこともないような斬新なアイディアというものはそうそうあるものではありません。どっかで見たような聞いたような話になったとしても気にしてはいけません。いっそのこと○○のパロディを作ってみるとかいうことから始めてもいいと思います。最初は何だって模倣からはいるわけですから。
仲間を集めるより先に、こういう映画を作るので参加しないか、という風に呼びかけて、仲間を集める方が筋かも知れません。強力な意志を持ったカリスマ監督がいれば別ですが、仲間が集まった段階で、企画を練り直したっていいと思います。私がここで語っている自主映画とは要するに仲間が集まってワイワイ作る映画のことですので、趣味に走った監督個人のプライベートフィルムの事ではないのです。といっても内輪受けしかしない自己満足映画のことでもありません。あくまでも見せることを目的としたテーマのある映画です。観客を芸術的な気分にさせるにしろ、喜怒哀楽を感じさせるような映画にしろ、作品として独り立ちが出来る映画を作りましょう。
映画のジャンルは様々です。しかし自主映画で破綻のない作品世界は現代劇で、自分たちが等身大で出演できる作品。学生ならば学園もの。社会人なら企業もの。それぞれの年代の青春映画であることが基本でしょう。恋愛劇やミステリーあたりがよく扱われるジャンルだと思います。テレビドラマと同じですね。ささやかな思いつきを大事に育てて、一本の企画にしたいものです。
そもそも、企画を立てるとは何か。企画書を書くことです。客観的に文章でテーマを書いてみましょう。この企画でどんな映画を作りたいのか。何を訴えたいのか。文章で100パーセント表現できるなら、映画にする必要はありませんので、そんなものはボツでよいのです。企画書の段階では大体のテーマ(主題・方向性)が示せればよいでしょう。ではそのテーマをどうやって映画という手段で訴えるのか。あらすじの必要でない映画もあると思いますが、私はストーリー性を重視てしまうたちですので、ストーリー性のある映画の話をします。ともかくあらすじを書いてみることです。そうすることによって全体像が見えてきますから。テーマとあらすじを文章化して、一応の企画書は完成です。どうにもストーリーらしいストーリーのない、それでいてきちんと訴えかけるテーマを持った映画もあると思いますが、よほど全体像がはっきりしていないと、スタッフを納得させることは出来ないでしょう。感覚にこだわる、映像美を追求する、それも結構ですが、やはり何らかのストーリーは欲しいと思います。つまり筋がないドラマはわかりづらいものです。観客の前にスタッフの納得を得られないと企画が立ち上がりませんから。
それを叩き台にして、スタッフでああでもない、こうでもないと言い合う機会を何度も設けましょう。やがて、客観的に評価できる、他人の鑑賞に堪えうるような企画が立ち上がると思います。後は脚本担当者に任せましょう。
また、演劇と映画は根本的に違いますので、注意しましょう。演劇の経験者がそのままスライドして映画俳優になることはありがちなのですが、演劇の芝居と映画の作りは違います。当然ながら演劇では可能な設定も、映画では不可能です。演劇では舞台背景がなくとも、そこであらゆる設定が可能です。密林だと思えば、密林。砂漠だと思えば砂漠が表現できます。しかし、悲しいかな映画にはそれが出来ない。老人は老人にしかできないのです。芝居は演技で子供から老人まで演じ分けられますが、映画ではそれは出来ません。中学生が演劇の上では大人の役をしても、それは映画では許されないのです。それこそ学芸会の映画になってしまいます。キャスティング可能な範囲で企画立てるというと本末転倒になりかねませんが、自主映画の製作上の制限から諦めた方が無難な企画もあります。
宝塚の「ベルばら」を映画にするとなると芝居ならともかく、自主映画では無理です。仮にタカラジェンヌが総出演しても映画にはなりません。昔、山本又一朗というプロデューサーが「ベルばら」を「フランスで外人使ってやればいいんだろ。」とばかりに映画化したことはありますが、成功しませんでした。
こんな例えは変かも知れませんが、お笑いで言うと演劇は落語や漫才で、映画はコントです。落語は座布団一枚と一人の演者で全てを表現してしまいますが、コントには衣装やセットのリアリティが大切です。