私は競馬場のある街に住んでいた。幼い頃からよく父に連れられて競馬場へ行った。パドックと言うところでは、ぴかぴかに光る大きなお馬がすぐ目の前をゆったりと歩く。やさしそうに目をぱちぱちさせている。ものすごく長いまつげ。母より長い。でも、お馬のしっぽと母の後ろ髪を比べると、同じくらいの長さだった。それを見比べる見るのがとても楽しかった。
建物を挟んで、パドックの反対側に大きな広場があって、レースが始まると父は金網におでこをつけてゴールの場面を見ていたけれども、私はちっとも楽しくなかった。ずっとパドックにいたかった。レース場はどこか遠くで駆け出したお馬が雷鳴りのような音をさせて、やってくる。目の前のゴールを一気にお馬が走りぬける。大きな音がしてすごいけれど、さっきまでゆったり歩いていたお馬とは違う、怖い生き物のように見えて嫌だった。
ある日、父は競馬場で迷子になってしまった。いつものように私を連れて競馬場に出かけた父は、パドックから客席に行く途中で私を置いて券を買いに行ったきり戻ってこなかった。最終レースが終わっても父は現れなかった。私は一人ぼっちで家まで泣きながら歩いた。その後、二度と父は家に帰ってこなかった。
お姉さんの私がしっかりしていなかったから、父が迷子になったのだと思った。母や弟たちに泣いて謝ったけれども、母は怒っているばかりで許してくれなかった。弟たちは年少さんだったから、何もわかってくれない。それからの私は母に連れられて弟たちと競馬場に行くようになった。ぴかぴかで大きなお馬はいつもかっこよかった。胸とお尻の硬そうなお肉が盛り上がっている。ゆらゆらと金色に光るふさふさのしっぽ。母の後ろ髪にそっくりだった。私はいつもお馬をうっとりと見つめているか、大勢のお客の中に父の姿を探すかをしていた。競馬場でまた父と会えると思っていた。父もここが好きなのだから、きっといつかやって来る。そう信じて母も競馬場に来ているのだと思っていた。
絵本の中に出てくるような白いお馬は競馬場にはいなかった。前で新聞を見ているおじさんに聞いたら、白い馬は弱いから競馬には向かないんだと言っていた。私のお気に入りは黄色のお馬だ。お日様の下ではぴかぴかの金色に見える。とても素敵だ。かっこいい。母はあまりお馬は見ない。ぶつぶつ言いながら怖い顔でいつも数字の出る大きな掲示板を見ていた。
ある時、パドックから観客席に行く途中で、券を買ってくるからと言って私と弟たちを通路に残して、母は人混みの中に入っていこうとした。その後ろ姿が最後に覚えている父の後ろ姿に重なって見えた。私は弟たちの手を引きながら母を追いかけた。母は知らないおじさんと腕を組んでいたが、私たちに気がつくと、奥に向かって駆けだした。弟が転んだ。私は弟の手を離して、母を追いかけた。金色のふさふさした母の後ろ髪が遠ざかっていく。発券の締め切りを告げる音楽があわただしく鳴り響く。大人たちは通路に溢れている。人混みに溺れそうになりながら、私は必死に母の後ろ姿を追った。誰かにぶつかったり、怒鳴られたり、突き飛ばされたりしながら、転んでは立ち上がり、それでも走った。けれど、もう母の姿は見えなかった。母も迷子になってしまった。弟たちを探しに戻ると、下の弟が倒れていて、上の弟がそのそばで泣いていた。下の弟は俯せに倒れたきり動かなかった。体をゆすると耳の中から血が出てきた。
下の弟はそれから一度も目を覚まさないまま、死んでしまった。私と弟はシンセキという人に家に住んでいてはいけないと言われて、施設と言うところに引っ越すことになった。子供がたくさん住んでいる家だったが、子供同士でけんかばかりしていて嫌だった。私は弟を連れて施設を抜け出して、自分たちの家に行ったけれども、よその人が住んでいる。私たちの家ではなくなったみたいだった。仕方なく、競馬場へ行ってみた。父や母に会えるような気がした。最終レースまでいたかったけれども、弟がお腹を空かせて泣いたので施設に戻った。競馬場に行ったことを話すと施設のおばさんは私と弟を殴った。二度目からはご飯を食べさせてもらえなかった。弟がかわいそうなので競馬場へ行きたいのを我慢した。弟を新しいリョウシンという人たちが連れて行ってしまってから、私は本当の独りぼっちになってしまった。それからの私は一人で施設を抜け出して競馬場へ通うようになった。殴られても、お腹が空いても。
クリスマスの日。寒い北風が午後になって雪を降らせた。パドックでいつものようにお馬を眺めていたら、私の好きな黄色のお馬たちのささやき声が聞こえてきた。よく耳を澄ませていると私に話しかけているようだった。
「お嬢ちゃん、今日、僕たちは君のために勝ってあげる。」
「君のことは仲間から聞いているよ。」
「私たちは君のために走るよ。」
「俺たちの券を買いなよ。」
「たくさんのお金がもらえるよ。」
きつく握りしめた私の手には五百円玉が一枚あった。ありがとう、お馬さん。でも、私はお金なんか欲しくないの。
「おいしいものが、たくさん食べられるよ。」
「きれいな洋服が買えるよ。」
食べたくないし、寒くない。私はお友達が欲しい。
「だったら、僕たちはずっと以前から友達だ。」
「君と会うのは初めてだけど、君の話は仲間から聞いている。」
「私たちは友達だ。」
「友達さ。」
「友達だ。」
「友達だよ。」
「君のために俺たちは走るよ。」
「僕たちの券を買っておくれ。」
「君のために走る。」
「君のために私は走る。」
「君のために俺は勝つ。」
パドックのお馬たちがメリーゴーランドの羽の生えた白馬に見えた。
父と、母と、弟たちと、一緒に乗った一度きりのメリーゴーランド。
楽しい。
楽しい。
最高に楽しかった思い出。
回る回る。回る光の思い出。
お馬たちの周りを舞う雪が、あの夜の光の洪水のように見えた。
私を乗せて。私をどこかへ連れてって。お願い。お願い。
その年の有馬記念は大雪のためか、史上最高の配当が付いた大荒れのレースとなった。翌朝、パドックの雪溜まりの中で少女の死体がひっそりと発見された。彼女のポシェットには一枚の当たり馬券が小さく折りたたまれて入っていたのだが、それに気づいた人間は誰もいなかった。
彼女の存在を気にかけた人間が誰もいなかったのと同じように。