仙箱殺人事件

 戸川和夫が仙箱正三を殺そうとした気持ちも分からなくはない。

真面目で潔癖性だった彼の性格に父の死が影を落としていたことも事実だった。

夫は高校三年、進学に悩む平凡な少年だった。

有名大学への受験に実績がある仙箱予備校に高校一年の秋からずっと通っている。

和夫の父が交通事故で死んだのは高二の夏だった。

保険に入っていなかったため、被害者への示談金や慰謝料で一度に借金が出来た。

予備校の校長をしている仙箱正三が和夫に援助の手を差し伸べたのは、彼の美しい母親が目的だった。

「和夫くんは実力もあり、将来有望な生徒さんです。学費のことは奨学金の手続きも済みました。ご心配には及びません。大学のことも私が保証いたします」

仙箱は五十を越えても独身の醜男だった。

和夫の母は年よりも若く見える美しい女性で、幼い頃から和夫が密かに自負する母だった。


 和夫が仙箱と母との醜い関係を知ったのは、高三の夏。つい最近のことだった。

その日体調が思わしくなかったために、和夫は予備校を早退したのである。

模擬試験で優秀な成績を取ったことを母に早く知らせたい気持ちもあった。

仙箱が家の玄関から出て行く姿とそれを見送る母の表情に「女」を感じた。

和夫は物陰に隠れ、最近の母の動向に思いを巡らせた。

化粧が派手になったこと。

小遣いに不自由がなかったこと。

食卓の彩り。

言葉の端々の艶っぽさ。

思い当たることを一つ一つ数えてみた。

そして事情を察した。

予備校からもらったデータカードを破り捨てて憤然とした。

しかし、彼に母を責めることは出来なかった。

 大高校三年生の演劇部員は五名。

部長は川村赤穂。

副部長は中星隆徳。

会計担当は鈴目真由美。

書記担当は多岐純紀。

肩書きのないのが時行加寿である。

演劇部には部室がなかったので、物置を勝手に改造して住み着いている。

北校舎の日陰にあるので、先生たちの目も届かない。

顧問も名ばかりで、演劇のエの字も知らない。

それをいいことに部員たちは好き勝手に、明るく振る舞っている。

「バンシュー先輩」と一年生や二年生たちも川村赤穂をそう呼ぶ。

彼女の父母は先見の明がなく、赤穂と命名した。

そのために忠臣蔵で有名な播州赤穂にちなんで小学生の頃からずっと彼女のニックネームはバンシューだった。

本人もこれにはあきらめていて、テストの氏名欄にもうっかり播州赤穂と書いてしまったことがあるくらいだ。


「だから私の思う今度の文化祭はね。ナニで行くのよ」

 バンシューは部長らしく、三年生を勢揃いさせて企画会議の真っ最中だ。

バンシューと張り合おうという根性のあるのは副部長の中星くらいで、他の三人は終始無言でポテトチップスをつまんでいる。

「いや、俺の書いた台本を使ってくれよ」

「いやよ。中星くんのは」

「なんでだよ」

 バンシューは腕を組む。右手を口元に当てながら、「第一、場面が多い。第二に登場人物が多い。うちの部活のスケールに合わない」

「そんな、たかが四幕五場じゃないか。人物も二十人くらいだろ。

情熱でカバーできる」中星が必死に抗議する。

 バンシューは中肉中背の舞台映えする可愛い子だ。

学校の成績は今ひとつ目立たないが、入学当時はすべての運動部からスカウト話があったほどのスポーツマンでもある。

それが何故か部員ゼロに近かった演劇部に入部して、一人で立て直した。

我が儘な部分もあるが、決して自己中心的というわけでもない。

どちらかというとお節介でお人好しの性格なのだろう。

うでなくては後輩たちには慕われない。

一、二年生だけで男女併せて二十名はいる。バンシューは自分が思っているほど利発なわけではないが、中星が思っているほど馬鹿ではない。

「部員全部が舞台に出てどうするのよ。当日のスタッフが足りなくても困るし、応援を頼むのは私のポリシーに反するの。舞台の背景だって、あなた作ったことがあるの。書き割りも満足に書いたことないくせに」

「春の公演では小道具担当だったからだ。完璧な仕事ぶりだったろ」

「葉巻一本で完璧はないでしょ。ボール紙丸めただけじゃないの。子供だって出来るわ。箱を重ねただけの大道具なんて、しょぼいのは私いやなのよ」

 九月二十日の大高文化祭めがけて、演目を検討しているのである。

ぼやぼやしていたら夏休みなんて終わってしまう。

今日は八月二十日。

もう稽古や大道具の製作に入らなければならないぎりぎりの日程だった。

「私たちの高校最後の芝居になるんだし。まっ中星くんは来年、部長でもやって好きな芝居作ればいいじゃない。」つまり、留年しろという意味らしい。「私は最後は納得できる、感動的な舞台にしたい訳よ」

「それは俺だって同じだよ。どこをどう直せば使って貰えるのさ」

「カットすればいいなんてレベルじゃないし。無理無理。というわけで、今回は私のオリジナルで『西高買います』を上演することにします。」

 戸川和夫は中星隆徳の親友である。

和夫は無論、母のことは親友にも打ち明けてはいない。

八月二十一日の土曜日。

和夫は演劇部の大道具製作をする中星の手伝いをした後で、一緒に下校した。

家が近所な事もあり、和夫は一端家に戻って、私服に着替えてから、中星の家を尋ねた。

母には予備校へ行く旨を伝えて家を出たのだが、腹痛を理由に予備校はさぼるつもりで、中星の家の電話を借りて、欠席連絡をした。

人は中星の家の二階で馬鹿話に花を咲かせた。

和夫はあまり友達の多い方ではなかったが、中星とは二年でクラスが一緒になった時から、よく行き来している。

和夫の父が亡くなった時も出過ぎることなく、和夫をいたわった。

 中星は年の割には落ち着いた気配りの出来る部分があった。

中星という男は不思議な男で、敵を作らない性格らしく誰とでも親しくなるという特技を持っている。

暴走気味のバンシューを落ち着いたハンドルさばきでサポートするのが中星の役柄と言えるのかもしれない。

 和夫は中星と談笑しながら、自分が計画していることを踏みとどまるか否か迷っていた。

文化祭の芝居の話をしながらも、頭はつい錆びついたハンマーの方に行ってしまう。

以前、ハンマーを近くの工事現場で拾って自宅に隠しておいたのである。

それを中星の家を訪ねる時に腹に隠し持って来ていた。

そのまま中星の部屋にはいるわけにはいかなかったので、中星家の庭先に置いてきたのである。

 中星の部屋の窓からは外の路地がよく見える。

千箱は母との情事の後、帰り道に必ずこの路地を通る。

それとなく見張りながら、中星の話に聞き入る素振りをする。

それとは気づかない中星は芝居の説明に熱が入る。

「異次元人が登場して、学校を買い占めるって話なんだよ。いくらなら売るのかって生徒に聞いてくるんだ。値段を付けると言い値で金を払ってくれるんだよ。そして気がついたら学校が異次元人のものになっていた…みたいな話」

「SFだな、それ。面白くなりそうじゃないか」和夫は窓の下から過ぎ役視線を戻して、「俺、そろそろ帰るよ。予備校の終わる時間だしな」

「あまりさぼらない方がいいぜ」

「わかってる。せっかく高い金を出して通わせてもらっている身分だからね。じゃましたな」

 中星の家を出て、庭先に隠してあったハンマーを拾う。

冷たい感触だ。もう午後九時を回っている。

ひんやりした感触は夜露に濡れたせいばかりではないようだ。周囲に人はいない。

仙箱の後を追って和夫は走り出した。

すぐに仙箱の小柄な後ろ姿に追いついた。

仙箱正三。

間違いない。住宅街の一角に放置されたような資材置き場がある。そこを抜けると近道になる。

仙箱がそこを通ることも和夫の計画通りだった。

学習計画もこう計画通りに出来るとありがたいんだが、と余計なことを考えながら素早く背後に近づいた。

資材置き場の入り口近くで置いてあった麻袋を拾った。

これも計画通りである。

 名前も呼ばずに首筋にハンマーを振り下ろした。

めいて仙箱が膝をつく。素早く麻袋で仙箱の頭を覆う。

ンマーを幾度も頭に打ちすえた。

みるみるうちにぼろ布はどす黒く染まる。

麻袋を取り除いて、仙箱が息絶えたことを確認した。

血を吸った麻袋が少し気になったが、指紋が残る心配はなさそうだった。

指紋が残らないように慎重に懐を探って財布を抜き取る。流しの強盗に見せかけるためだ。

そもそもハンマー以外に自分の持ち物はない。

だが、念入りに周囲を見渡して、慰留品を残していないか確かめる。

 和夫は近くの大きな川にハンマーを投げ捨てる計画だった。

さほど川幅がない川なので岸から投げると向こう側の土手に落ちるかもしれない。

だから橋の上から川の真ん中に投げ捨てるつもりだった。

計画していた橋よりも手前に新しい橋が架かっていた。

計算外ではあったが、どの橋の上からででもハンマーを捨てるだけならば問題はない。

ハンカチで指紋をよく拭って、思い切り遠くへ投げた。

勢い余って前のめりになり橋の手すりから落ちそうになってしまった。

遠くで水音がする。そして悲鳴が聞こえた。

夜釣りを楽しむ小舟の近くにハンマーが落ちたらしい。

あわてて、和夫はその場にしゃがみ込んだ。腰を低くして、そのままその場を離れた。

「仙箱の校長が殺されたんだって。怖いわねぇ。」

と、バンシューが言う。いつもの部室である。

「強盗らしいな。俺の家の近くだからよ。俺の家にも警官が来たよ」

と中星が答える。

 夏休みの部室は芝居の準備で大忙しだが、忙中閑ありというところか。

のんきにバンシューたちが世間話をしているのである。

「現場は資材置き場なんでしょ。あんなとこに何故、予備校の校長がいたのかしら。家が近くなの」

「いや、なんの関係もないと思うんだけどな。俺も予備校とは縁がないし」

 多岐純紀が口を出す。

「でも、間抜けた強盗だよね。凶器を近くの川に捨てるなんてさ。まんまと目撃されたんでしょ。どんな奴だったのかしら」

多岐純紀は痩せすぎではあるが、かなりの美人である。

活発なバンシューをひまわりにたとえると月下美人と言った塩梅。

「ところがどっこい。降ってきたハンマーに当たりそうになっただけで、投げた奴の姿は全く見てないらしいよ。俺の住んでる近所でこんな物騒な事件が起こるなんてイヤだなぁ。というわけで、今日は早く帰る」

中星が鞄をつかんで腰を浮かせかける。

 バンシューが素早くそれを制する。

「ちょっと、待って。まだ大道具の仕事がまだ終わってないでしょ。今日こそ仕上げてもらうまで帰さないわよ」

 和夫は自宅の中庭にあるバーベキューグリルの中で犯行当時に身につけていた衣類や持ち物を焼いていた。

靴もハンカチも一切が灰になっていく。ハンマーを投げ捨てた橋は新しいものだった。

ペンキが塗り立てと言うことはあるまいと思ったものの、ペンキが付いていないかは、よく調べた。

ペンキの跡も返り血の跡も服には一切なかった。

しかもこの時の衣類は前もって二着ずつ用意しておいたもので、処分してしまったとしても、友達にも気づかれることはない。

念のためにが仙箱の財布は一番に燃やした。

「動機が母のことだと疑われたとしても、証拠がなければ犯人にされることない。アリバイがない人間なんていくらでもいる。釣り人だって俺の姿は目撃していないはずだ。ハンマーはすぐに回収されてしまったが、指紋は残ってない。奴の持っていた財布の中身は有効に使わせてもらえばいい。一万円札はすべてゲームセンターの両替機で処理してしまった。もう証拠はない」

現場やハンマーを捨てた場所のことは気になったが、決して足を向けなかった。

犯人は必ず現場を訪れるの鉄則に引っかからないための和夫なりの注意だった。

和夫が自宅の部屋であれこれと夢想していると、玄関のチャイムが鳴った。

「大警察署の時雨(しぐれ)というものです」

中年の刑事は折り目正しく、警察手帳を開けて和夫に提示する。

隣には制服の警官が一名いる。

「近所で強盗殺人事件がありましたのはご存じですよね。その件で周囲のお宅にはお邪魔しています。あなたが戸川和夫さんですか。被害者はあなたの通っている予備校の校長先生だったそうですが、そのこともご存じですよね」

「それは知ってますけど。別に何か教わっているわけではないですから…」和夫は冷や汗を掻いている自分に気がついていた。しかし、それも自然な反応だろうと思っていた。ミスはない。自分にミスはないと何度も言い聞かせる。

「バンシュー。びっくりしたよ」

ペンキ塗りが一段落して、演劇部の部室に中星が戻ってきたのだ。

「今度はナニよ。セリフが全部言えたとか」

一年生に稽古をつけていたバンシューが振り向く。

「違うよ。俺の家にまた刑事が来てね。石膏で型をとってったんだ。俺の家の庭先にひまわりの植え込みがあるんだが、そこにハンマーの跡があったんだって。だれかが凶器のハンマーを置いておいたらしいんだよ。よく見つけたよなぁ。俺の家族は全然築かなかったのにさ」

「ハンマーって、あの仙箱殺しの凶器でしょ。警察って凄いのね。ちょっと見たら分かるところなの、そこ」

「まっわからなくもないけどね。門のすぐ内側なんだけどさ。聞き取りに来てた時雨って言う刑事がめざとい人でね。偶然見つけたんだよ。地面の上にハンマーの跡が残っているなんて確かに珍しいからね」

「いつ置かれた跡なのかしら」

「まっ犯行が行われる前には違いないけど、俺の家族は誰も気がつかなかったからね。俺は仙箱予備校とはなんの関係もないし、家が近所ってだけだけどさ。まっいろいろ聞かれたけどね、誰が見ても俺って善人でしょ」

 和夫はハンマーの跡が中星家から見つかったと聞いて流石に慌てた。

しかし自分が置いたという証拠もないと考えて、努めて平常心を保つようにした。

他に何か見落としがないかを必死になって考えた。

 そして気がついた。

 暑い夏。

手袋をして歩くという不自然さがないようにするかわりに、特に指紋には気をつけていた。

しかし考えた末に思い出したことがあった。

ハンマーを投げた後勢い余って、前にのめったこと。そして橋の手すりを掴んだこと。

掴んだからには指紋が残っているに違いないこと…。

血の気が引いた。しかし、あれから四日たっている。

昨日は雨だった。雨で流れてしまったかもしれない。

和夫は緊張でその夜眠れなくなった。

 八月二十八日。和夫が問題の橋へ行こうとして道を急いでいた。

自宅からの通り道にある中星家から二人の人影が待ちかまえていたように出てきた。

中星とバンシューである。

学校の外で二人が一緒にいるのを和夫は初めて見た。

「二人そろってデートか。これはまずいところを見ちゃったかな」

と言って足を止める。

「ナニよ。どういう意味。変な勘違いしないでよね」バンシューが不機嫌そうに、和夫をにらみつける。

中星も

「そういうこと。バンシューは予備校の校長殺しを遅まきながら現場検証するんだってさ」

「なんで、そんなことする」

和夫は自分が早口になってしまったのを感じた。

「バンシューの趣味なんだって。探偵ごっこが。あ、俺に何か用事があったのか」

「いや、大した用事じゃない。遊びに来ただけさ。俺も付き合おうか。現場検証」

「いいわよ。助手は多い方が何かと便利かもしれないし。一緒に行きましょう」

三人が歩き出すと間もなく子犬を連れた中学生に会った。犬の散歩らしい。

「あっちょっと、ごめんなさい」

バンシューは行く手をふさぐと、犬の頭をなでて、早速に犬を手なずけた。

飼い主の口を割らすためにはペットとなじむのが一番である。「まぁ、かわいい。何歳なのこの子犬。」

「まだ半年くらいなんですよ。小さいけど生意気でしょ」

「いつも今頃この道を散歩してるんですか」

バンシューのわざとらしい質問にも、女子中学生は素直に答える。

そこで事件当日の思いがけない話が聞けた。

「中星さんの家の門柱って、うちのタロが散歩中必ずマーキングするところなの。申し訳ないとは思っているんだけど、中星さんとこが大目に見てくれてるんで、あそこはタロの縄張りなのね。あの日の四時頃に中星さんの家の前を通ったけど、、あそこにハンマーなんて落ちてなかったわ」

子犬のタロは中学生にさかんにまとわりついている。

「殺人事件があったから、私とタロの散歩も当分の間禁止なの。タロも私も可哀想」

 バンシューはにっこり笑って礼を言うと中学生と別れた。

星が目を丸くする。

「バンシュー凄いな。お前、本当に探偵の素質あるなぁ。犯人があの日の四時から犯行時刻の九時までの間、俺の家の前にハンマーを置いておいたことがはっきりしたじゃないか。凄いよ、お前」

「なんでもないことよ。置いておいたことがはっきりしたって事よりも、何故置いておいたかの方が重要よね。私は推理小説のファンなのよ。こういう事って本当は大好きなんだけど。強盗事件なんてロマンがないというか、殺伐というか。追い込みで忙しい演劇部の部長がこんなことしてていいのかしらと自己批判しちゃうわね」

「副部長の俺もいるぜ」

「それだけ私たちって飾りと言うことなのかしら。優秀な部員に恵まれているって事なのかしら。ええっと犯行現場の資材置き場はこっちでしょ。戸川くんの家とは反対方向だよね」

 急に話が自分に及んだので、返事が遅れた。「あぁ、そうだ。校長が死んだ頃ってちょうど俺はアリバイがないんだよな」

「そんなの、わたしだってないわよ」

「俺もない。アリバイなんてのはある奴が怪しいんだよ。気にすることはないさ」

「あそこの橋はつい最近出来たんだよな」と中星。

 バンシューが「といっても七月でしょ」と言いながら、橋の手前でふと足を止めた。

 中年の男がぼうっと対岸の岸辺に立っている。時雨警部だった。

 中星が頭を掻いた。「大署の刑事だよ。俺のところに聞き込みに来た」

「俺のとこもだ」と和夫が吐き捨てるように言う。

 向こうもこちらに気がついたらしいが、わざとらしく知らないふりをしている。

話しかける気はないようだった。

三人が橋へ向かうのを察したのか刑事は川を挟んで同じように歩き出した。

何気なさを装っているが、明らかに跡をつける気らしかった。

 後ろ暗いことが全くないバンシューは無邪気なもので、いつこちらから声をかけようかとわくわくしている様子だった。

 中星が「警察の見方では橋の上から投げたんじゃなくて、岸から投げたと思っているみたいだね」と言う。

 理由を尋ねる和夫に中星は答える。

「だってさ、ハンマー投げ捨てるだけなら、この川幅だ。思いっきり投げれば、向こう岸に届いてしまう。だから軽く弓なりに投げればいい。川の真ん中に沈めるんだったら橋を渡る必要はない。」

「だけど、中星くん、犯人が橋を渡って、向こう側へ逃げたんなら、橋の上から投げ捨てるって事もあるでしょ」バンシューは早計する中星を制する。

 中星は取り合わない。

「橋の上に人影はなかったって釣りしてた人が証言してるらしいよ」

「それだって腰をかがめれば橋の手すりがあるから、見えなかったかもしれないわ」

二人は橋の手前で立ち止まって、会話を始める。

 和夫は自然と二人の先に出た。

橋の上。和夫は足早に歩いて、自分がハンマーを投げ捨てた位置に立った。

そして手すりを掴んだ。あの人同じ場所。

同じ位置である。

これでもしも指紋が残っていたとしても、カムフラージュできる。

「この辺りからハンマーを投げたんだろうな。」

「この橋は新しいのね。私、渡るのは初めてだわ」

隣で川の底をのぞき込みながらバンシューが言う。

 和夫も

「あぁ、俺も初めてだ。駅前に行くには古い橋を渡っちゃうんだよな。あっちの方が近い気がするんだ。いずれはあの橋も取り壊されるのかな」

物心付いてからずっと使っていた橋には馴染みがあるし、慣れた道の方が近く感じるものではある。

バンシューは丸い手すりの上に肘をついて両手を自分の頬に当てる。

「これは出来たばかりの橋なんだ。この手すりって、ひょっとしてペンキ塗り立てだったんじゃない。丁度、事件のあった頃なんじゃないかな。犯人の手形が残っているかもよ。探してみようか。探そ、探そ」

 馬鹿な。自分の手にも服にもペンキの跡なんてなかった。

第一、

「橋が出来たのは七月だったって、さっき言ってたよね。四日前にペンキ塗り立てのはずがないじゃないか」

と和夫は呆れながらも、声を荒立てた。

 バンシューはにっこり笑ってめげない。バターが溶けるようなニンマリした笑顔だ。「ところがね。戸川くん。暴走族みたいな人が橋の欄干に黒スプレーでイタズラ書きをしちゃったんだってさ。一週間くらい前にね。それで事件の起こった日のお昼頃に市役所の人が再塗装したばかりだったのよ、ここ」

 見る見るうちに和夫の顔が青くなる。手すりにへなへなともたれかかった。そして目を閉じた。ペンキの表面は乾いていた。だから手が汚れなかった。

 バンシューが和夫の隣で微笑んでいる。

「戸川くん。君の今触っているところに誰かの手形があるよ。でも、こすっても駄目だよ。あの刑事さんたちが午前中に指紋とか掌紋は採取しちゃったそうだからね」

 中星は哀しそうにつぶやいた。

「お前、さっきこの橋へ来るのは今日が初めてだと言ったよな。俺はお前が犯人じゃないと信じていたのに。馬鹿だよ、お前は」

和夫は振り返って中星を見た。

中星の背後から、時雨警部が近づいてくる。

 和夫は皮肉に言い放つ。

「バンシューと中星の二人芝居の観客は俺だけじゃなくて、刑事もいたってわけかよ。お前ら芝居がうまいな。今度の公演の成功は間違いないぜ。俺が保証するよ」

和夫は拍手をすると、中星を押しのけて刑事の方に潔く歩き始めた。

「最初から俺を疑っていたのか」

その場で振り返って、和夫はバンシューを見た。

 バンシューは首を横に振った。

「いいえ。この橋へ来るまでは疑ってもいなかった。でも、あなたは犯人が橋の上からハンマーを投げ捨てた位置に迷わず立ったわ。自分のミスがなんだか、わかったかしら。橋の上は橋の上でもどちら側の端なのかなの。アクセント合ってるかしら、不安だわ。犯人が川上側に投げたのか。川下側に投げたのか。その判断を即座に出来たあなたを変だと思ったのよ。だから芝居は全部アドリブよ」

「おお、バンシューって頭いいね」

和夫は力なく笑った。しかし、バンシューの次の一言でさらに脱力したようだった。

「でも、ごめんなさいね。私って嘘つきなのよ。この手すりはペンキ塗り立てだったっていうのは嘘。市役所の仕事なんてそんなに手際の良いものじゃないわ」

終わり