来訪した老人の話に閉口している。どうも様子がおかしい。
「これほどいっても分かってもらえませんか。では、これを見てください。」
老人はガラスにひびの入った腕時計を差し示した。
「私の母が実家の時計店から結婚の記念に父に贈ったものです。裏にイニシャルと日付が彫ってあります。そうです。これはあなたが今左手にしてらっしゃる時計です。私はあなたの長男の元一なんです。私は七十年後の未来からやってきたのです。 私はずっと研究を重ね、つい今し方、時間航行機を完成させ、ここへ跳んできました。お父さん。お父さんは三十歳の誕生日の今朝、ここで原子爆弾のために命を落とします。ほら、この時計の針はその運命の時間を示して止まったままなのです。ああ、もう時間がありません。」
男はその壊れた時計と自分の時計を比べてみた。確かに錆びてはいるが、これが七十年の時の重みなのか。老人の顔をまじまじと眺めてみる。疎開している元一の面影が徐々に浮かんでくる。しかし、こんな白髪の老人にいきなり父親呼ばわりされても男は戸惑うばかりである。
「母は僕たちの疎開先に来てくれていたので助かりましたが、戦後の無理がたたり過労死。妹も病気で死にました。原爆でお父さんさえ死ななければ、僕たちの人生は違っていたはずなんです。早く逃げましょう。」
「元一……。私と元一しか知らないことですが、元一に先週持たせてやった本は……。」
「もう幾度読んだか分かりません。ウェルズの『タイムマシン』ですよ。」
戦時下にありながらも外国の空想科学小説の熱烈な読者だった父。疎開する子供に密かに持たせた本の書名が「タイムマシン」だったのである。もう市外に逃げる時間はない。裏庭の防空壕に二人は飛び込んだ。
暗闇の中。大地震のような衝撃波を感じた。外は阿鼻叫喚の炎熱地獄と化している。二人は暗闇で耐え続けた。暗闇の中の会話は時間を忘れさせ、親子の情愛を通わせ、子にとっての七十年を取り戻させた。疎開先の親戚でいじめられた話に父は怒り、初めて聞く父の志に子は感動した。一週間後、重い樫の一枚板を押し上げて外に出る。残留放射能は怖かったけれど、食料も水も尽きていた。荒れた焦土の上にポカンとした青空が広がっている。父を救えた喜びで、子は自分の背後の異変に気がつかない。ぐらりと隣家の壁が動いた。
「元一。生きなさい。」
父は子を突き飛ばし、自らはビルの残骸の下敷きになった。瓦礫の下から覗いた父の手を必死に握りしめる子。父の時計は午前八時十五分十七秒を指して止まっていた。