小心サッカー(上)


 天才は軽々と凡人を踏みつけて高みにあがっていく。ワールドカップで三試合連続ゴールを決めたKという天才ストライカーの成長にホップ・ステップ・ジャンプの三段階があったとしたら、最初に踏みつぶされたのが私かもしれない。私は彼が頭角を現した小学校時代に同じ地区リーグに参加していた。隣町のFCにすごい奴が居るという噂が立ち始めた頃、私は地区大会の決勝戦でKと出会った。ディフェンダーだった私を疾風のようにかわして、Kはハットトリックどころか六得点を決めて、その年の内に全国のサッカー関係者の注目を集める選手となった。次の年にはKは静岡に引っ越して、本格的にサッカー三昧の生活を送り、中学、高校、Jリーグと常に天才の名をほしいままにしていったのである。

 一方、Kに赤ん坊扱いされた私は、ささいな怪我を理由にサッカーをやめた。以来、学校での授業以外にはサッカーボールに触れることもしなかった。あの時のKを私が防いでいたなら、いや防ぐほどの力が私にもしもあったのならば、私の人生はもっと違う方向に転tがったかもしれない。私はサッカーから逃げて以来、万事無気力な青春を送った。ユースの国際大会でKが活躍していた頃、私は喫煙で補導され、学校から謹慎処分を受けていた。Kと自分を比較すると自分が惨めに思えてつらかった。高校を卒業し、一浪して二流大学に通った。Kがオリンピックやワールドカップに出場しいよいよ雲の上の人になってから、比較すること自体が馬鹿なことであることにやっと気がついた。白鳥の子は元々は白鳥だ。アヒルがいくら突っ張ってみたところで、白鳥にはかなわないのだから。僻みや劣等感から解放された私は平凡に就職し、なんとなく結婚し、子供もできて、ごく普通の父親となった。Kは昨年現役を引退したものの、抜群の知名度と人気を誇っている。以前、美人女優と結婚したが、今では独身に戻っている。Kは全く私のことを覚えていないはずだし、私自身はかつてサッカーをやっていたことなど妻にでさえ黙っている。再び、Kとの接点が生まれることなど夢想だにしなかった。

 息子がサッカーをやりたいと言い出した時も反対はしなかったし、喜びもしなかった。私よりも妻の方が熱心で、遠征や父母会などに積極的に参加している。市政五十周年記念の近隣少年サッカー大会が催されるという話が持ち上がった時も、妻は嬉々として大会役員を引き受けてきたくらいである。結局、その役目は私がやる羽目になったが。

 大金をかけて落成した市民スタジアムのこけら落としを兼ねたその大会に、名誉市民であるKがゲストとして呼ばれ参加することになった。小学校の頃の一時期を過ごしただけの街を故郷と呼んで、そこの小さな大会に顔を出すことが、彼にどんなメリットがあるのかはわからない。スケジュールがたまたま空いていただけなのか、ただの気まぐれだったのか。

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