ポケベル

  翔子に頼まれて携帯を取り出す時に、バッグの中からポケベルが顔をのぞかせた。

 「あら。珍しいじゃないの。厚子ったら携帯あるのにまだポケベルなんて持ってんの。」

 流行も技術革新もどんどん進んでいる。ちょっと前まではテレカだった。それがポケベルに。PHSに。そして今は携帯だ。携帯といえば携帯電話を指すことは誰もが知っているし、誰もが携帯を持っている。今の若い子なんて町中が自分の部屋のように電話しながら歩いている。

 「それって液晶の小さいタイプでしょ。すっごく古くない。」

 確かに私のポケベルはかなり旧式だ。発信者の電話番号を表示するだけの初歩的な機能しか付いてない。第一、これの呼び出し番号を覚えている人なんてこの世にはもう誰もいない。

 翔子は私の携帯で男友達と十分近くも話したあとで、待ち合わせの場所が決まったからと、春風のように喫茶店を出ていった。プレゼント選びに付き合ったあげくに、ひとりぽつんと置いていかれるなんて、我ながら人が良すぎる。さっきのポケベルを出してスイッチを入れてみる。反応しない。調べてみると電池が入っていない。金輪際鳴るわけがない。液漏れするのが嫌だから古いのを取り出して、新しいのを入れようとしてそのまま忘れていた。忘れてしまうとは、つまりこういうことだ。いつの間にか彼との思い出が私の日常から薄れていっている証だ。寂しいけど、ほっとする。

 喫茶店を出る。午後の日差しに、裸の街路樹がまだ寒々しい。人影は疎らだが、ひとりぼっちで歩いているのは私くらいだ。駅前通りは再開発されて、更地が目立つ。二十五階建ての高層マンションが建設中だ。赤いクレーンが旋回している。もしも最上階の部屋にすむことができたなら、天気のよい日はいつも彼の眠る尾根を望むことができるだろう。そんなことばかり思いつく自分が悲しい。いつまでも思い出を引きずっていないで、私もこの街のように生まれ変わるべきなのかも知れない。

 工事の囲いの前を歩きながら、かすかな電子音を聞いた。携帯の呼び出しメロディではない。ポケベルの音だ。もう忘れていた音色だ。この音色を聞く度に高校生だった私は頬を紅く染めながら、公衆電話を探したものだった。それまでモノクロームだった風景が鮮やかな色彩に溢れた世界に変貌する。夢中でバッグを探る。ポケベルをつかんだ瞬間に、鳴らないはずのベルが振動していることに気がついて、足がとまった。

 その時、大音響がして目の前に大きな鉄骨が横倒しに落ちてきた。衝撃と砂煙で私は後ろにとばされた。その場に倒れたまま、がたがたと震え出す。遠巻きに人垣が出来はじめた。砂煙がはれてきた。あと数歩前に出ていたら、私は象に踏まれたトマトみたいになっていただろう。

 全身の震えが止まらないまま、体を起こす。握りしめた手の中にポケベルがあった。小さな液晶パネルが目にはいる。発信者を示す電話番号が一瞬表示され、短い電子音とともに消える。私は天を仰いだ。目が潤む。桜色の花びらが青い空から舞い落ちる。

 「ありがとう。あなたは天国から私をずっと見ていてくれた。」

 私はまだひとりぼっちじゃなかった。

終わり